ホーム > 佐々木かをり対談 win-win > 第99回 神原 弥奈子さん

99 |
神原 弥奈子さん
|
|
|
小学校時代は、造船不況で大変な時期でした
- 佐々木
神原さんご自身のお話を聞きたいんですけど、さっき、生まれた時から経営者が周りにいたという話がでました。広島で生まれ育って、お父様は社長。お母様は社長夫人。仕事はしていないですね?
- 神原
専業主婦ですね。
- 佐々木
大社長の家庭で、お嬢様として育ったんですよね。
- 神原
そういう風に言っていただけると、そうかもしれないです。
- 佐々木
どういう教育を?
- 神原
ずっと高校まで地元なんですね。4人男兄弟だったものですから、父は私を女の子らしく育てたかったと思うんですよ、たぶん。ただ、すごく矛盾した部分があって。本当に小さい頃、お茶、お花、お琴、ピアノ、お習字とか、お稽古事もありとあらゆることをやっていた一方で、どんどん弟が生まれるわけですよ。弟が4人いるわけです。で、この性格ですよね。
- 佐々木
それは、何とも(笑)。
- 神原
親戚のおばたちと一緒に、子どもは私しかいないのに、皆と一緒に座ってお習字のお稽古をさせられたりとか。
小学校の時からそんな感じだったんですけど、一方で、海もあるし、山もあるし、弟たちと一緒に、やっぱり野山を駆け回る。父も自然の中で育っているので、海遊び山遊びっていうのは当たり前のようにする、どうしようもないおてんばですよ、本当に。
おてんばというか、じゃじゃ馬っていう感じなので、ある場所では我慢するんですけど、もう、リリースされたら何をするか分からないという感じでしたね(笑)。
- 佐々木
でもそれは、ご家庭の育て方がよかったということですよね。だって、本当に厳しく育てるんだったら、男の子が遊びに行っている時は、女の子だけ別だったり、あるいは、そういう風には、あまりさせてくれなかったり、と想像できると思うんだけど、両方できるっていうのは。
- 神原
4人も弟が生まれちゃうと、隔離している余裕はないですね。小学校に入ってすぐ祖父が亡くなったんですけど、祖父が亡くなった後って、今思うと、造船不況で大変な時期でした。だから、祖父が生きていた頃までは、ヒラヒラのお洋服だったんだけど、いなくなると、お下がりに弟が着られるような服装になっちゃうわけですよ。
小学校時代は、本当に大変な時期だったので、それこそ私は一番上で、体も大きかったので、新しい体操服とか着せてもらいましたけど、弟たちは私のお下がりですし、今でも覚えているのが、靴下を縫っていましたものね、母が。破けたら縫っていましたね。で、継ぎ接ぎのある靴下とか履いていましたから、やっぱりすごく大変な時期だったみたいですね。
- 佐々木
じゃあ、大企業だから、お父様が社長を引き継がれても、社長という外の顔と、経営者としての内の我慢があったんですね。
19/26
|
 |
|
|