地方分権と一人ひとりの責任
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2003年5月31日
小泉改革の目玉の一つ、地方分権について経済財政諮問会議の民間議員が提出した改革案の内容が報道されました。内容は、国からの補助金をカットすること、税源を移譲すること、これらに数値目標を設定することなどが盛り込まれています。これが受け入れられれば、秋の「骨太方針」に入れるといわれています。
問題は、地方分権に中央官庁が消極的というか、反対であるということでしょう。江戸時代までの封建制度を除くと、もともと日本には、地方分権という考え方はないのです。明治時代に廃藩置県が行われましたが、これは中央集権の考え方に基づいたものでした。今の県知事の役割を果たしていたのは「県令」と呼ばれる人々ですが、これは中央政府によって任命されたのです。
地方にこそ民主主義の原点がある
現在、たしかに県知事は地方の直接選挙によって選ばれます。しかし地方自治体の財政は、補助金によってがんじがらめ。つまり、中央政府は補助金によって県を縛っているわけです。ここを何とかしないと、「地方分権」といっても名ばかりになりかねません。だからこのような改革案が出てくるわけで、それに対して権限を失いかねない中央官庁や政治家(中央のお金を地方に持ってくることで権力を維持しているような議員)が反対するのも当然でしょう。
したがって基本的には、税源を地方に渡し、国からの補助金をカットすることでいいと思います。ただ、これで問題がすべて解決するわけではありません。地方に税源が移譲されるということは、地方が独自の政策(産業振興策とか住民を増やす努力とか)を展開できる能力があることが前提となります。つまり、地方にこそ民主主義の原点があるということを住民が理解していなくてはなりません。
三重県の北川前知事が、県政に行政評価システムを持ち込んだのも、そういった考え方からでした。たとえば県がつくる道路を住民が必要かどうかを評価し判断するということです。県のやることは、県民の判断に基づいて実行されるわけで、行政の責任が県民に委ねられるのです。
さてここで自分のことに立ちかえって見ましょう。みなさんは、県の仕事をある程度でも知って、それが必要かどうか判断できますか。あるいは今はあまり知らなくても、もし地方分権が進んできたらそれを勉強して自分が県の仕事を判断する意欲がありますか?
チャンスはあれど活かし切れず
さらにもう一つ。かつて竹下登首相の時だったか、ふるさと創生資金という話がありました。市町村に1億円の金を渡して、それで町おこしとか村おこしをやってもらおうというものでした。発想としては地方分権そのものなのです。地方が独自に考え、その地方にあった政策をとれば、もっとも適した資金の使い方ができるはずでした。
ところが実際は、当初考えられていたこととはまったく違う使い方をした市町村も多かったのです。中には、金のしゃちほこを作ったり、ろくでもない「箱モノ」を作ったり。結局、「あのお金は本当に生きたのか」ということになると、誰も自信をもって答えられないお金になったのです。ある自治省のお役人は、ある程度予想されたことだが、と前置きしながらも「ここまでひどいとは」と嘆いたものです(もちろん有効に使った例もあります)。
議論ができる素地づくりを
つまり、地方分権は望ましい方向にあることには違いないけども、肝心の地方はそれを受け入れる用意ができているのか、という根源的な問題があるということです。それは地方自治体もさることながら、住民レベルでも同じことが言えます。それに税源が移譲されることになれば、税率が結構自治体によって変わってくるかもしれません。現に、アメリカなどでも売上税(消費税と同じようなもの)は州によって違います。ちなみに法律も違っていて、死刑制度がある州も、ない州もあります。喫煙にうるさい州も、うるさくない州もあります。
「均質」であることにわりと慣れている日本人が、こういった地方による違いを受け入れるのか、ということにもわたしは疑問に感じます。中央官庁の権限を制限することには大賛成ですが、そうなると結局、その責任を背負うのはわれわれ一人ひとりの国民であり、そのためには、わたしたちがきちんとした議論ができるような素地をつくることが必要なのでしょう。何と言ってもそれこそ民主主義の基本なのですから。
関連リンク
「統一地方選があぶりだした地方自治の問題」(「私の視点」2003年4月19日)
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