幼稚園児の外交
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2002年5月18日
瀋陽の日本総領事館を舞台にした「亡命未遂事件」は、日中両政府の事実認識が著しくすれ違ってままです。福田官房長官は、「自分の国の政府を信用しますか、それとも外国政府を信用しますか」と記者団を兆発しましたが、その兆発には「自分の国の政府を信用できたらどんなに幸せでしょう」と返したいと思います。外交問題で両当事者の見解が食い違うことは別に珍しいわけではありませんが、どうひいきめに見ても、日本政府のほうが分が悪いからです。映像を見る限り、副領事が抗議をしているようには見えないし、領事館内に入った男性を拘束しに中国の官憲が入ったときに「阻止」できなかったはずがないからです。
日本政府は、中国に対して抗議し「謝罪」を求めましたが、ある意味で的確に反論されて手も足もでないように見えます。こんなお粗末さで外交交渉なんかできるのだろうか、ほとんどの人は心配になるでしょう。昨年来、外務省は失点続きでその権威は地に落ちていますが、この事件はある意味で止めの一撃になるのかもしれません。しかし、外務省を解体して新しい外務省をつくれば解決できるのでしょうか。僕自身はそうは思えません。こうした外交オンチぶりの根っこはもっと深いところにあると考えるからです。外交とは、国の利益を守り、国民を守るためのものです。自国民(あるいは自国の企業の利益)を守るためだったら少々強引なこともやる、そんな事件は歴史上いくらでもあります。戦争を起こした例だってあります。しかし日本の政府は、戦後、海外に関わる国益とか国民の利益を守るために、強引な主張をすることを原則的に避けてきました。それは、第2次大戦のトラウマがあったためです。
それなのに、日本は世界第2位の経済大国になってしまいました。戦後50年以上もの間、外交ではまったく訓練されていない幼稚園児のような国が、経済的にはいきなり大学生になったようなものです。「何を守るのか」という理念も、戦略もないままに、図体だけでかくなったわけで、このいびつさが外務省の情けない対応の根底にあります。だとすれば、外務省を総入れ替えしようが何をしようが、日本という国、あるいは日本人の中に新しい外交理念がない以上、同じことが繰り返されるだけではないでしょうか。
現在、国会で論議されている有事法制の恐さも、実はここに関係してくると思います。日本という国を守ろうとするならば、軍隊は必要でしょう。軍隊が暴走しないためにも、軍隊を律する法律は必要です。現在の法制では、「きな臭くなってきた」ときに自衛隊が動くことができません。その行動を規定した法律がないからです。だから有事法制は必要だと僕も思います。
でも法律は条文だけですべてが決まるわけではありません。その条文の根底に流れている思想が法律の性格を決めます。つまり日本政府が(政府の主人である)国民に目を向けて、その身体、財産を外敵から守ろうという理念をもっていれば、いい有事法制ができるでしょうし、国民主権であることを忘れてしまえば悪い有事法制ができてしまいます。
それでは日本政府は国民に目を向けている、もっとはっきり言えば、国民主権だと考えているでしょうか。その問いに一つの答えを出したのが、この外務省の事件です。警察の度重なる不祥事や、金融庁のていたらく、道路公団などの特殊法人、どれをとっても国民主権ということを置き忘れてきたような話ではないでしょうか。もしそうならここで有事法制などを通したらロクなことにならないという感じもします。でも忘れてはいけないことがあります。この国民主権という民主主義の大事な理念を一番忘れているのは、実はわれわれ国民自身ではないのだろうか、という問いかけです。われわれに主権があるのだったら、われわれ自身が文句を言うだけでなく、いろいろなことに対して自分自身の考え方をもたなければいけないのではないでしょうか。それが本当の改革だと思いますが、みなさんはどのようにお考えでしょう。