ベアゼロが象徴していること
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2002年3月16日
日本の春を彩ってきたのは、桜と春闘。春闘は、労働者の待遇を改善する重要なものでした。それがこのところ労働組合側が後退するばかり。今年もベアゼロと、ある意味では組合にとって「屈辱的」ともいえる結果に終わりました。
もっとも、ベアがゼロであっても昨年の日本の物価上昇率はマイナス2%ですから、実質的にはベア2%であるわけです。名目賃金が変わらなくても、実質的に家計の購買力は増えている計算です。もちろん生活水準の改善を「実感」できるかと言われれば、楽になったと答える人はほとんどいないでしょう。残業料のカットをはじめとして、景気の悪さのしわ寄せがあるからです。
それはともかく、ベアゼロという春闘は、日本が曲がり角に来ていることのひとつの象徴でもあります。ベースアップという考え方は、労働者の生活水準を全体的に向上させることが目的でした。ある意味では、公共事業で道路をせっせと作り続けてきたのと同じなのかもしれません。道路を作れば日本の経済力が向上し、その結果、日本が豊かになる、というわけです。
おそらく、昔はそれでよかったのです。労働者の賃金を上げることによって消費の水準が上がり、企業も設備投資をし製品を作る。その結果、日本の市場が広がり、日本全体が豊かになってきたのです。もちろん道路だって、経済活動のインフラとして必要でした。道路のおかげで物資の輸送が、円滑かつ効率的に行われるようになったことは否定できないのです。
しかし道路建設の効果がだんだん薄れてくるのと同じように、賃金もある程度までいくと、その効果が薄れてきます。もちろん賃金を無限に上げ続けるわけにはいかないのです。なぜならこれだけ国際競争が激しくなってくれば、企業は当然その競争力を維持できるような賃金にしようとするし、もしそれが不可能になれば安い労働力を求めて海外に生産拠点を移すことになるからです。
つまり、これからは「みんな一緒に」という形では成り立たないということです。だから企業から年功序列賃金も消えていくでしょう。職能別の給与体系や、個人の業績によるボーナス制度もどんどん比重を高めて行くに違いありません。いってみれば、日本的な社会主義的資本主義は、変わって行かざるをえないということです。
それが幸せなのか不幸せなのかは、個々の人によって違うでしょうか、競争社会に変わっていくことははっきりしています。それが象徴的に表れたのが、今年のベアゼロだったと思います。社会が競争一辺倒になると、ギスギスしてくるような気もします。おそらくこの方向性は変わらないでしょう。それが嫌だったら、やっぱり日本から逃げ出すしかないのかもしれません。