謝ればすむのか
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2001年9月1日
神奈川県警の不祥事がまたまた発覚しました。不祥事が起きるたびに、頭を下げる県警幹部。「県民の皆様には本当に申し訳なく」という決まり文句が繰り返されます。今回頭を下げたのは、金高雅仁警務部長。神奈川県警が問題になった99年10月に着任し、それ以来なんと10回もお詫びしてきました。
ぱっと立ち上がって深々と頭を下げる姿は、何度もテレビで見ていますが、どうも今ひとつ納得しかねるところがあります。とにかく謝らないと世論がうるさい、という感じがにじみでているような気がするからです。少年犯罪などで「容疑者はいまだに謝罪の言葉を口にしていません」とリポーターが言うのを聞くと、事件の背景などもわからないのに「とにかく謝らないやつは悪い」といっているように聞こえます。
外務省でも警察でも同じことで、なぜそのような事件が起きるのか、再発防止のために具体的にどのような手を打った、あるいは打つつもりなのかが見えてこないのです。たとえば外務省では、領収書のいらない公金というものが存在するのが犯罪の温床です。いかに機密費といえども、それは外部に対して発表しないということで、内部的には領収書が義務付けられていてもおかしくありません。領収書がなければ、内部的にも説明ができないでしょう。横領で逮捕された松尾室長はまさにこのケースです。
これが「説明責任」ということではないでしょうか。特権を与えられている人は、自分のしたことについて内部的、対外的に説明できなければなりません。漁業実習船えひめ丸が衝突されて沈んだとき、森前首相は戸塚カントリーでゴルフをしていました。
第一報後もなおゴルフを続けたことに対し、森さんは「そのほうが連絡を取りやすい」と答えました。これで「説明」になっていますか。ここがあまりにもばかばかしかったために、森さんは結局総理の座を追われることになりました。
説明責任が果たされていない例はほかにもあります。たとえば医療過誤。先日も都立広尾病院の院長が患者の異常死を報告しなかったとして執行猶予付きですが実刑判決を受けました。医者は患者に関してきわめて特権的な地位にあります。治療に関して「一方的に」判断を下す立場にあるのです。だからこそ治療に関して患者に説明することが必要だし、薬を出したらそれが何の薬であるのかを説明しなければなりません。最近でこそようやく丁寧に説明する医者が増えているようですが、一昔前までは、何かを聞けばうるさがられたものでした。説明責任を要求するのは、有権者や患者の権利であり、そして義務です。感情的に怒ったり、文句を言うのではなく、冷静に納得できる説明を要求しなければなりません。感情的になると相手が平謝りすればそれで終わりになってしまうからです。土下座などというのは、反感を抑えるのには役に立っても、事件の再発を防ぐのには役に立たないと思います。
もうひとつ、説明責任を要求するということは、その説明に対して私たちが判断をしなければならないということにもつながってきます。つまりその説明を納得したら責任は私たちも負わなければならないのです。それが民主主義の原点ではないでしょうか。有権者が権利を行使できるのは、選挙だけではありません。さて皆さんは、説明してほしいことがありますか。