靖国問題をどう考える?
藤田正美(ふじた・まさよし)
『ニューズウィーク日本版』編集主幹
2001年8月11日
小泉首相が「靖国公式参拝」を言明して以来、中国や韓国から反発の声があがっています。「熟慮中」と言っていますから、結局は「公式」ではないという形に変わるのかもしれません。
なぜ小泉首相が靖国参拝にこだわるのか。戦没者に敬意を表するため、不戦を誓うため、というのが表向きの説明です。それと同時に、いわゆる「聖域なき構造改革」を唱える小泉さんにとっては、靖国もひとつの「聖域」であり、前例にこだわらずに参拝できなければ、日本人としておかしいという気持ちがあるのでしょう。
しかし靖国神社は、もともと戦意を鼓舞するために設立されたものであり、その歴史的経緯から近隣諸国は首相の靖国公式参拝に反対してきました。しかも戦争で戦った兵士たちのみならず、極東軍事裁判で有罪となった戦犯まで合祀されていることも彼らの神経を逆なでするわけです。
戦争が終わってもう56年もたっているのに、なぜいまだに中国や韓国から「歴史カード」を切られるのか、という思いが日本人の中に高まっているのは事実です。もし南京虐殺が糾弾されるのなら、どうして広島や長崎への原爆投下、あるいは東京大空襲が糾弾されないのか、という思いもあります。実際、アメリカとドイツはドレスデン大空襲で多数の一般市民が犠牲になったことについて和解しています。
ただもし日本の一般市民が多数死傷したことについて和解を求めるのなら、中国の重慶爆撃や南京事件、バターン死の行軍についても、和解しなければなりません。もちろん国の戦争賠償という意味では、サンフランシスコ講和条約で解決ずみだと思いますが、これは国家間というより国民の間の感情的な問題なのです。
そのあたりを解決してこなかったために、いつまでも靖国や教科書を政治的な問題として蒸し返されるのではないでしょうか。謝罪するかどうかも大切ですが、いちばん大事なのは「あの戦争が何だったのか、なんのためにあれだけの人たちが死んだのか」をわれわれ自身が問い直さなければならないのではないでしょうか。
まして日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言を、「国体護持」のためにずるずると引き延ばしてきたために、広島、長崎、そしてソ連の参戦を招いた指導部の方針は、責められて当然だと思います。ただどうしてそのような決断にいたったのか、そのときの状況はどうだったのか、これを細部にわたって理解することはむずかしいことです。それでも一定の歴史的な見方を個々の国民がもつこと、それが重要だと思います。