
2歳になる息子に多言語を聞かせています(mokekek・神奈川・パートナー有・33歳)
わが家の息子はまもなく2歳ですが、英語を始めさまざまな国の言葉をCDなどで聞かせています。いまはまだ積極的に身につけさせようというつもりではありませんが、本人がその気になったときに違和感がないように、と考えています。また、世界にはさまざまな国があり、いろいろな言葉があるということを感じることで、自分とは違う生活や考え方をしている人がたくさんいるということを知ってもらえたらよいと思います。
ただ、生後6ヶ月ごろまでに母音の認識は母語に準じるようになるとのことで、折に触れ多言語を聞かせてきた息子も「hello」は「ハロー」です。言語は生身の人間に触れ、体感して習得していくものなのだと実感しています。
また、英語は別格と考えているので、歌のCDもたくさんありますし、英語サークルの参加は0歳のときから行い、そろそろ教室への参加なども考えています。1歳半くらいのころは英語を聞くのを嫌がったりもしたのですが、最近では嫌がらなくなりました。日本語を一生懸命習得しようとしているときには外国語は邪魔になることもあるのかなと思います。キライにならないように、楽しく、さりげなくある感じ。こどものころはそんなふうに多言語に触れさせられればと思っています。
言語の多様性に触れ世界をよりよく知る(remy・東京・30歳)
多言語教育を受ける機会はあるといいと思います。英語を勉強してきて、仕事でも使うようになっていますが、世界を見る機会が増えるほど、英語を母国語としない国が多くあることを実感しています。言語の多様性に触れることは、世界をよりよく知ることにつながるのではないでしょうか。そういう意味では、「○ヶ国語話せることが必要!」というよりも、英語プラスアルファくらいの気持ちで学べる機会があるといいですよね。私自身は、北欧に興味があるので、ノルウェー語をのんびり勉強しているところです。
自国の美しい言葉にも触れて欲しい(masa0815・青森・パートナー無・29歳)
ほかの国の人とコミュニケーションしていくためには、多言語教育は必要だとは思うんです。が!、自国の言葉で書かれた美しい言葉の数々にも触れてほしいと思うんです。百人一首はこういうふうにして作られた、一首一首に込められた思い、とか、自国の文化の元になっている「芸術」であったり「文学」であったりにも同時に親しんでほしいなぁと思います。私は「源氏物語」が大好きなのですが、自分のアイデンティティ(大げさ?)が作られてきた根底にあるものも知ってほしいと思います。日本の言葉はとても面白いと思います。
英語力UPで日本のプレゼンスが強化される(sayang・千葉・パートナー無・34歳)
日本人が、たとえばシンガポール人並みの英語力を持ったら、世界における日本の総合的なプレゼンスの強化につながると思います。日本の文化や技術などを容易に海外に発信できるようになるし、日本人の労働マーケットも世界中に広がるでしょうし、国内外での海外交流も深まるでしょう。多言語といったらやはり英語になってしまうでしょうが、いろんな意味で多くの機会が増えるような気がします。
さまざまな文化、考え方を知ることもできる(蓬莱山・北海道・パートナー無・34歳)
多言語教育は必要だと思います。日本もこれから多方面にわたって国際化が進むでしょうし、特に中国や韓国など、アジア近隣諸国との往来が増していくでしょう。現地の人たちと交流するとき、英語だけでなくその地域で使用されている言語がちょっとでもできると、交流の深さが変わってきます。それに、一番大切なのは、外国語の習得を通じて、その言語が使われている国や地域の文化や社会についても知ることができる点です。残念ながら、私たち日本人は、アジアにいながら、同じアジアの国々や地域の社会、文化について、あまりにも知らないと思います。私は中国語を教えていますが、ときどき学生さんから「中国は嫌い」という言葉を聞きます。中国のどこが嫌いなのかとたずねると、「とにかく嫌い」としか答えません。おそらく、中国のことはあまり知らないのにもかかわらず、世間のムードや報道に流されているのでしょう。少しでも中国の社会や文化のことを理解していれば、もっと違う反応になるはず。多言語を身につけ、どんどん海外に行ってみれば、世界にはいろいろな文化、習慣、考えを持っている国や人々がいることが分かり、視野も広がって、ひとりよがりな「日本が一番」という考えから解放されるのではないでしょうか?
多文化教育の道具としての言語(パレアナ・東京・パートナー有)
いま日本に必要なのは、世界のたくさんの文化に触れ、その価値を認め合うような「多文化教育」ではないでしょうか? そのための道具として、言語教育が大切だと思います。ですから、単に多くの言語を使いこなすことを目的とする「多言語教育」では意味がなく、個人の能力に応じて、言語と文化を同時に習得していくことが理想だと考えています。