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川合アユムさん
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「まあええわ」
- 佐々木
それで、そうしたんですか?
- 川合
24〜25の時の悩みを持ちつづけながら、どうしていいのかわかんなくて、結局ずっと会社を続けていったわけですね。
みんな頑張って、売り上げもどんどん数字は上がっていったわけですよ。借り入れの規模も増えていって、事業体としては大きくなっていったんですね。そこへ、95年ですかね、ソフト業界の究極のピンチがあった。Windowsが日本に入ってくる。
あの時に、Windowsの時代に変わるからっていうことで、ソフト業界の開発が1年ほど止まったんですね。軒並みハードウェアの業界も、ソフトウェアの業界も、売り上げが落ちたんですけど、例にもれずうちの会社も。
その時の状態はどういうことかっていうと、ずーっと売り上げが上がり続けてないと資金が回らない。ほんとサメのように、泳いでないと呼吸ができない、止まっちゃうと窒息死してしまう、ということだったんです。
もともとそんな資金余力はないところで政府系のいろんな借り入れで経営してたんですけど、究極のピンチになって、その時は本気で自殺も考えました。生命保険もずっと掛けてました。
もうあかん、という時に生き返ったんですね。その時に助けられたんが、天井さんとかいろんな先輩経営者の方々。助けられて1年経った時に、ふと、もうあんまりええかっこする気持ちはなくなってきたんです。
それまでは、20代の前半は、何か一生懸命突っ張っとったし、背伸びしてたし、よく見せようという気持ちがものすごく働いてたと思うんですね。
それは会社のためでもあった。僕は自己顕示欲っていうのはなくて、あんまりメディアに出るのは好きじゃないんですね。あんまり出ても気持ちよくないし、自分が載った雑誌って絶対見ない。それはもう昔からずーっとそうだったんです。だけど会社のためにそれしなくちゃだめだと思うことはやってたんです。でも、最終的にね、むちゃくちゃな自分だけど「まあええわ」と。
自分のできるようにしかできないわけだから、それ以上によく見せることも全部止めた。徹底的に自然体になれたのは、倒産ギリギリのあの瞬間からなんですね。助けられてからなんです。
で、そのころに急にいろいろな発明をし始めたんですね。
コペルネットやマンダラ型ネットワーク構想や、その後、世界で特許化した技術がいろいろ生まれてますし、そのネットワークの構造を考えている時、組織の在り方も、ネットワークのコンピュータのつながり方とかそんなことを考えてた時に、人間の組織も一緒だと思ったんです。在り方についてそう思ったことを形にしたのがPD制度。
- 佐々木
特許はいくつありますか?
- 川合
僕が関わったのは国内外全部合わせても20個はないと思うんですけどね。周辺特許も入れてそのぐらいです。会社としてはもっと多い。最近PD制度以降の特許について僕はノータッチですから。全部会社の連中が作っているもの。
- 佐々木
そうすると、悟りを開いたのはそのころなんですか?
- 川合
自分で「ほんまに命でつぐなおう」って思って、それを人に助けられて。助けられた時に、よく言うことがあるんですけど。不治の病で「余命あと3カ月」って言われていながら、生き方が変わったという人いますよね。生き方が変わった結果、3カ月経ったら病気が消えてなくなってたと。病気が治って生き方が変わっちゃった、という人がいますけど、あれの意味が何となくわかった気がしたんです。
当時の自分の会社が僕にとってのボディだったと思うんですよね。それ以外の何でもなかったですからね。で、心の部分は自分だったんですよ。体が病気になって、もうボロボロになったけど、最終的に生き方が変わったから病気がなくなったのかなっていう。
だから病気は、気づきを与えるために自ら作り出しているんだ、という考え方を言う人がいますけど、なんかそのことの意味がすごいわかった。
だってそのころ、つまり20代の後半のころなんて僕はものすごく苦しそうな顔して日々生きてたと思うんですね。で、それ以降はもう気楽に(笑)。
12/19
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