ホーム > 佐々木かをり対談 win-win > 第47回 伊藤 隼也さん

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写真家・ジャーナリスト(医学ジャーナリスト協会会員)
伊藤 隼也さん
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初仕事で医療事故被害者ルポを
- 伊藤
まあ残念ですが……終わるよね、ほとんどの日本人は。
- 佐々木
以前「CBSドキュメント」のアンカーをさせていただいていたときに、アメリカのCBS「60ミニッツ」のレポートで、医療判断ミスは50%以上というような報告もありました。日本でも医療事故、ミスは、山ほどあるんじゃないかと。
- 伊藤
僕はそういうのを――負の、ネガティブなものを何千と見たんですよ。自分で写真家としてたくさんのルポルタージュもしたし。
でも、最初はいわばファッションの撮影もしてたわけでしょう。X JAPANの仕事までしてましたから。そういうロッカーの写真を撮ったり、それなりにアーティスティックな世界で生きてた人間が、ある日突然『週刊現代』のグラビア担当者に、医療事故のルポルタージュを撮りたいと言っても、相手にされないですよね、実績も無いし何を???言ってんだと。
- 佐々木
「今までの略歴は? 経験は?」みたいな。
- 伊藤
全然、相手にされなくて(笑)。でもしつこいから。フリーランスで生きるということは、そういうしつこさがないと生きていけない。まあ、しつこいという言い方は適当ではないかな(笑)。
ばかみたいに、一生懸命ですからね。そうすると相手も折れて、ある日突然、あんまりうるさいから一回やってみたら、みたいな話になって、10ページぐらいの巻頭の特集をいきなり僕に投げてきた。
- 佐々木
それはすごい。10ページとはすごい信頼。
- 伊藤
その時、医療事故被害者たちのリアリティのある写真を撮ったんです。例えば、麻酔ミスで、植物人間になってしまった患者の姿や出産時の不手際で脳に重大な損傷を負い障害者となった小さな女の子の写真など。
そうしたら、社会がすごくそれに反応したんです。今と違って、そういう問題が水面下にあって、表層には出ていなかった。そこへ僕がどんどんいろんなものを投げ込んでいったから、ものすごく反応があって。撮った写真が、講談社・週刊現代のドキュメンタリー大賞の候補に上ったりもした。まさに「あいつ、どうしたの? 何があったの?」っていう感じです(笑)。
- 佐々木
それが、「人生二毛作」。写真だけじゃなくて、インタビューして書くわけですよね。
- 伊藤
もちろん、自分でも少し書きました。もともと書くなんて作業が不得手だからカメラマンをしてるようなわけだったのに。医療関係の本も何冊か出しましたけど、今でも不得意なんですけどね。
- 佐々木
そうなんですか? そうとは思えない。『週刊現代』の仕事は1997年ぐらいですか?その頃に医療事故オンブズマン・メディオを立ち上げていらっしゃるんですね。この市民団体は、みんなで医療制度の確立を目指そうということですか。
- 伊藤
市民のための。それは結局、医療事故に遭った被害者って、さっきの佐々木さんの話じゃないけれど、相談する先がないんです、全然。行政がそういうことについて何かするという環境もないし、ガイドするいわば羅針盤みたいなものも必要じゃないですか。
簡単に言うと、ネガティブなデータというのは、どこかにきちんと集積すれば、ある程度プラスに変えられるデータが見えてくるんです。それは、例えば企業にとってクレームは宝だというのと同じ論理で、社会に還元するリソースというのは、必ずその負のデータをひとりの問題で終わらせないで、たくさん集めて。
- 佐々木
シェアすると。
- 伊藤
そう。シェアする。これがまさに人間としていちばん必要な、過ちから学ぶということですよね。それがまったくできないのが日本の医療界だったわけです。
- 佐々木
じゃあ、オンブズマン・メディオにはかなりのデータが。
- 伊藤
600人とか800人とか。支えてくれているのはみんな被害者の人たちですね。
その負のデータで、ある有名な――大学病院で、小さなお子さんが点滴の際に、経管栄養といって、本来は口から入れなきゃいけないものを、ジョイントが同じだったために、間違えて血管内に入れられて死亡した――という事件があるんですが、この事件のときに、僕はこういう痛ましい医療ミス事件をどうやったら社会に知らせることが出来て、うまく社会を動かせるかを考えました。
かけがえのない我が子を亡くされたお父さんやお母さんが、いろんなご縁があって僕にアクセスされたときに、「お子さんを亡くされたことはとても悲しいし、許せないことだけど、でもそれを社会に訴える仕事を一緒にしませんか」と言って形にしたわけです。
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