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石川 雅仁さん
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人から人へ
- 石川
わたしは化学が好きだったので、サプリメントの詳しい説明を聞いてから、自分の病気を治すこと以上に、栄養物質そのものにすごく興味を持っていきました。その時はまだ、仕事にすることなんか全然考えていませんでしたが、そうしているうちに、お金がなくなっちゃったんです。
それで、1度実家に帰ろうと、親元に戻ったんです。戻ったらいきなり、おじいちゃんががんだと聞かされて、父も母も祖母も泣いていたんです。どんな具合なのかと聞いたら、もう末期であると。右の肺にがんができていて、酸素ボンベを付けないと酸素の吸入ができない状態。祖母は泣きながら、「あと半年ぐらい」と病院で言われたという。
祖父の部屋の押入を開けるとね、当時日本で売られていたありとあらゆる健康食品がバーッと置いてあるんですよ。それ見て非常に悲しくなっちゃいましてね。そのころには、わたしはサプリメントのことは、だいたい全部を把握していましたから、どんな成分かわかっていたんですが、見てみたら、9割がたインチキなんですよね。しかも高いわけですよ、何万円というふうに。騙されて買ってきてるわけです。それを両親もなけなしお金で買って、おじいちゃんに一生懸命食べさせてたんですね。それ見たら悲しくなっちゃって。「ああ、これじゃいかんな」と。そこですぐに、アメリカの先生に相談したんですね。そうしたら、こういう食事にして、こういうふうにサプリメントを摂って、ダメもとでやってみたらどうだろうということでした。そして祖父用のサプリメントを送っていただいた。それを摂りながら、教えていただいた食事療法を始めたんですね。日本は栄養学が遅れていると実感して、家族を説得しました。病院では余命6カ月って言われてるんで、家族も栄養療法か何かわかんないけどできる限りのことはやってみようって、まじめに取り組み始めたんです。
結果として、祖父はそれから6年間生きました。それまでほとんど寝たきりだったんですけども、酸素ボンベもとれて、散歩にも行って。うちにみかん畑があるんですが、最後の2年ぐらいは、みかん狩りまでできるようになっていました。結局、最後はがんで死んだんじゃなくて、風邪の肺炎でたんが詰まって死んじゃったんです。
- 佐々木
おいくつだったんですか?
- 石川
78歳です。
- 佐々木
じゃあ70過ぎてからがんになられて、それから6年間も。
- 石川
はい。もちろん、栄養学でそのがんを全部抑えられたかっていったら、そうではなくて、がん自体はまったくなくなっていないんです。ただ増殖せず転移しなかっただけ、ということなんですね。それに、高齢だったので、がんの進行が遅い、という2つの理由で余命の6カ月が6年になった。
そしたら、おじいちゃんが死ぬんだってよっていう話が広まっていたのに、なかなか死なないわけで、「何で?」ということになって、親戚に話が漏れていったんです。なんか、わたしがアメリカの先生に聞いて、食事療法と変な粒食べてると。
- 佐々木
静岡でしたよね。
- 石川
そう、静岡で。そうすると、それを聞きつけた周りの親戚もみんな、どこかしら具合が悪いわけで、相談が来始めたんです。「あたし高血圧なんだけど、ちょっとその先生に聞いてもらえる?」みたいな話。それが気づいたら、もう親戚の人どころか、もっと広がっていて、月に300個ぐらいサプリメントを取り寄せて、無償で分けている自分がいたんです。
- 佐々木
(笑)
- 石川
こりゃ、いかん、と思いました。
- 佐々木
アメリカの先生からは買ってらしたんですよね?
- 石川
ええ。だからそんな数量になってくると、かなわないですよね。ほとんどボランティア。そこで、「あ、日本ではこういうサプリメントないのかな」って思った。それで日本の市場を見たら、十何年前ですから、当時やっぱりまだまだ全然ない。怪しい健康食品ばかり。じゃあこれ、自分が大勢の人に渡せないかなと思って。
そのころちょうど、国の貿易振興会が、個人輸入を推奨し始めた時だったんです。そこで、サプリメントを代行輸入できるか聞いてみたんですね。すると「できます」という返事だった。「ただし、販売目的ではできません」と言われました。医薬品に当たる成分があったり、そのほかのいろんな成分があったりするといけないので。でも、アメリカで食品と言われているものであればできますと言われて。それなら大勢の人に届けられるなということで、そこからビジネスが始まったんです。
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