

平等の名の下の個性つぶし(しど・大阪・既婚・34歳)
通信簿も5段階評価をしない学校が増えているそうです。一人の人格として「みんな平等」であって、能力や技術、成績はそれに見合った評価をしてくれないことには、頑張り甲斐がない。それぞれが力を発揮できる場で評価されてこそ、喜びや次への努力も生まれる。個性を大事にする教育、というのならば、正当な評価をきちんと子どもたちに与えてあげる場が必要なのではないでしょうか。
比較や競争も時にはいい刺激(Kuri・東京・既婚・34歳)
運動会の話が例に挙がっているが、年に一度の運動会で、かけっこや競技の順位を決めることは、子どもたちにはいい刺激だと確信している。それを「優劣は害」というなら、普段の大人の言葉や態度、先生の教育は本当に子どもに優劣を助長するような価値観で話していないのかと疑問に思う。
努力した結果を体験すべき(delbos)
優劣をつけないことが、平等だと思えるのでしょうか?努力した結果は、知りたい、評価されたいものではないでしょうか?リアクションのないできごとなど、愉しいと思えないのでは?人生、不条理であったり、報われるものであったりと、多くの結果を体験すべき。娘の学校は、通信簿がありませんが、果たして自己評価のみで子どもが目的意識を高められるものでしょうか?優劣は、心の問題だと思います。
認めること認められることが大切(みーはー)
自分で能力や技術を認める。また他人から認められる。たとえ下手であっても上手であっても。それがないと、切磋琢磨して向上する努力をしなくなるのではないでしょうか。成績が悪くても、人間的には何も卑下する必要はない。このことを小さい時から言って育ててきました。少しでも努力しているのを評価してやりたい。競争の意識は必要だと思います。
社会に出れば競争よ(柚花)
学習の習熟度クラスという制度は悪くないと思います。ただ、優劣というか競争させないというのはどうかな?と思います。人には向き不向きがあって、できないということを知ることも1つの勉強。社会に出たらどっちにしても競争です。そこまで保護する必要があるのかな?ちなみにわたしは小中全部徒競争は最下位でしたが、どうってことなかったですよ。
いろいろな子がいるはず(ひなた)
みんなが1等の運動会。なんだか違和感を感じました。絵が得意な子、勉強の得意な子、運動の得意な子、いろいろな子がいるはず。実社会では、さまざまなことで優劣を感じます。順番をつけるのがいけないのなら、運動会をやめた方がよいのではないでしょうか。
才能や努力を認める社会に(NONTA・東京・既婚・30歳)
努力して手に入れた時の喜びには、なんともいえない感動があります。コツコツ粘り強く、チャレンジ精神旺盛な子どもにしたいのです。昔の子どもは強かったし、たくましかったと言われます。親も厳しかったし、子どももいつも必死だった。平等化することによって、どんな利点があり、どんなすばらしい子どもに成長するのか、理由づけが欲しいです。
子どもをみくびるな(mamarin)
運動会で優劣をつけないことで平等なんて、子どもたちはもうお見通しです。どの子が足が速いとか、体操が得意とかわかっていますよ。子ども社会は結構シビアで寛容。自分の子が一等になれなくて落ち込むのは親のエゴ。子どもは親のために生きているんじゃない。個性だ、独立だという生き方が奨励されている時代に、足の速い子が思いっきり走れない社会はおかしいと思います。

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