パリで思う英語の功罪(2003年1月9日)
出張勝也(でばり・かつや)
株式会社オデッセイ コミュニケーションズ代表取締役社長
先月(2002年11月)に続いて再びヨーロッパに来ています。前回が一週間で3ヶ所を回る慌ただしいBusiness Tripだったのにうってかわって、今回は4泊5日で、パリ1ケ所にじっくりと滞在しています。
すでに何度も言われていることですが、パリに来る度に思うのは、英語を話す人たちが年々増えているということです。気をつけないと、フランスにいるというのに、英語ですべての用事が足りてしまいます。ホテルでは、CNNが見られますが、少々意地をはって、よく分からないフランス語のテレビ番組を見たりしています。どうしても意味が分かるニュース番組を見たくなった時には、イギリス発の番組をやっているチャンネルにまわしますが、すこしでもヨーロッパに来ている感覚を得るようにしています。
さんざん英語(特にアメリカ英語)のお世話になってきている僕が言うのもおかしなことですが、これだけ英語が世界中で使われるようになると、その功罪の「罪」の方を考えさせられます。英語で事が足りてしまうことによって、せっかく非英語圏に来ていることの意味が半減してしまっているように思えてなりません。戦後の日本では、海外と言えば無意識のうちにアメリカ合衆国のことを指しているケースが多く、いつの間にか、アメリカ合衆国のメディアの色眼鏡を通して世界を見ています。パリまで来てCNNを見ながら、イラン問題やイスラエル・パレスチナ問題を考えるなんてことは、ちょっと問題だと思いませんか?
言葉は「現実」を把握するためのツールであると同時に、「現実」を規定しているツールでもあります。国際政治などと大仰なことを持ち出さなかったとしても、観光で訪れた海外の街から得られるものも、言葉によって大きくかわってくると思うのです。英語を通して僕が見たり聞いたりするパリの「現実」と、フランス語を通して僕が経験するパリの「現実」はかなり違うのではないでしょうか?
安楽にも英語を使いながらパリの街を歩く僕たちは、苦労しながらフランス語を使わないと買い物さえもできなかった「パリ」を失ってしまったと思うのです。
コミュニケーションのためには便利な英語というツールを、今の時代に生きる僕たちは得たわけですが、その便利なツールの功罪を今一度よく考えてみる必要があると思うのですが、どうでしょうか?コミュニケーションのための英語の取得にさえ、四苦八苦している僕たち日本人には、少々過ぎた要求かも知れませんが。