英語が「できる」かどうか、重要ですか?(2002年10月10日)
出張勝也(でばり・かつや)
株式会社オデッセイ コミュニケーションズ代表取締役社長
先日、取引先とのミーティングで、先方のトップの方が、同席している若手社員について、「彼女は英語ができるんですよ。君、検定試験で900点とっているんだよな?!」と紹介されることがありました。
「できる」ということでは、以前、ある芥川賞作家が、「自分の高校では、女の子にモテルためには、英語ができるか、高校野球ができるか、それともルックスがいいか、どれか1つはないとだめだった」という話を書いていたのが記憶に残っています。
逆に、「私はまだまだ英語ができないんですよ」という話を聞くことがあります。それも、こっちから見ているとかなり英語ができるような方から。また、ある知人は、検定試験で満点の990点をとったけれども、どうしても自分のレベルに満足がいかず、ひたすら英語の勉強に注力しています。
かくのごとく、英語ができるかどうかの判断はひとそれぞれで、モテルかどうかと同じように、とても主観的なことに思えてきます。
こう言っては非常に乱暴ですが、われわれ日本人がしているほどに、英語ができるかどうかを「他人に示す」ことは、それほどたいそうな意味があるのでしょうか?今の日本で、就職や転職、あるいは企業内での人事評価のため、一定の点数が必要とされる場面が増えているということはよくわかっています。ただ、それは卒業するのに単位が必要だというのと同じ程度の話で、勉強することのおもしろさを知るということとは別のレベルのことです。勉強することのおもしろさを知ることは、誰にも認めてもらえないかもしれないけれども、自分の好奇心からどうしても知りたいという気持ちを持つことです。
人に認めてもらうために英語を勉強する、点数を取って英語が「できる」ことを示すために勉強するということは、生きていく上の必要悪で、僕は、できるだけ多くの方にその考え方から早く卒業していって欲しいと心から希望しています。(いつか書きたいと思っていますが、大学入試から英語をはずした方がいいという意見をさらに広げて、企業内の人事評価からも英語をはずした方がいいのではないかと僕は思っています。)
同じ程度に英語ができると見える2人の人でも、Aさんはまだまだ必要とするレベルに足らない、Bさんには十二分である、ということもあるでしょう。英語ができるかどうかという問いに対する答えは、なんのために英語を勉強しているのか、なぜ英語が必要なのかという質問の裏返しで、ひとそれぞれに違っているのが当然なのではないでしょうか?
このコラムはderari@ewoman.co.jpにお寄せいただいた読者の方の「何ができれば『英語ができる』ということになるのでしょう。」というご質問にお応えしたものです。