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PLOが生まれた
イスラエルによって土地を追われたパレスチナ人たちは、周囲のアラブ諸国の協力を得て、「パレスチナ解放機構」(PLO)を結成します。最初は穏健な組織だったのですが、やがてヤセル・アラファトが議長に就任すると、イスラエルに対する武力攻撃の方針を打ち出します。
イスラエルに対するテロ攻撃や航空機乗っ取りなどを繰り返したのです。PLOではありませんでしたが、パレスチナ過激派の一部は、ドイツで開かれたミュンヘンオリンピックでイスラエル選手団を襲撃するという行動にまで出ました。
余談ですが、このときの出来事をスピルバーグ監督が映画化したのが、近々封切される「ミュンヘン」です。それはともかく、こうした過激な行動によって、世界は中東問題に目を向けるようになり、中東和平への取り組みが始まるのです。テロによって初めて世界の注目を集めることができるという皮肉な現実があるのです。
シャロン悪名をとどろかす
度重なる中東戦争の第一線で戦闘の指揮をとり、英雄となったシャロンですが、1973年には上官の命令を無視した作戦を強行して、軍隊をクビになります。それでも英雄の名声を利用して国会議員に当選し、以後、政治家の道を歩み始めます。
1982年、イスラエルは、PLOの拠点を攻撃するため、隣国レバノンに侵攻します。このとき国防相だったシャロンは、イスラエル軍の支援を受けたレバノンの民兵部隊がパレスチナ難民キャンプを襲撃し、住民数百人を虐殺するのを知りながら傍観しました。シャロンは、この責任を問われて、国防相辞任に追い込まれました。まさにシャロンの悪名がとどろいたのです。
「オスロ合意」が生まれた
1993年、北欧のノルウェーで行なわれていた秘密交渉の結果、パレスチナ人に自治を認めるという和平案がまとまります。交渉が行なわれていた場所の名前をとって、「オスロ合意」と呼ばれます。ガザ地区とヨルダン川西岸地区にパレスチナ人の自治区を認めるというものでした。
この合意にもとづき、1996年、パレスチナ人による選挙が行なわれ、パレスチナ自治政府議長(大統領に相当)にアラファトが選ばれました。PLOの武装組織は、パレスチナ警察に生まれ変わったのです。
しかし、この和平案を推進したイスラエルのラビン首相は、……
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