<1ページ目からの続き> ……日本のものともロシアのものとも決めませんでした。ここには、日本人とロシア人の両方が住んでいたので、現状追認方式では決められなかったのです。このため、その後も、樺太には日本人、ロシア人の双方が暮らしていました。 樺太と千島列島を交換した 同じ島の中での生活は、やがてトラブルを引き起こします。日本人とロシア人の間で紛争が起きるようになったため、樺太をどうするか、決めなくてはならなくなりました。さて、どうするか。 樺太は全部ロシアのものと認めるから、千島列島はみんな日本のものとしよう、ということになったのです。【国境の移り変わりを地図で確認】 こうして1875年に結ばれたのが「樺太千島交換条約」です。樺太はロシア領、千島列島は日本領と取り決めました。樺太と千島を交換したという、大変わかりやすい名前の条約ですね。 このとき、新たに日本の領土になる千島列島の18の島の名前が列挙されていますが、この中に北方4島の名前はありません。 つまり、北方4島はすでに日本の領土として確立されていて、千島列島とは区別されていたことがわかるのです。日本政府が、「北方領土は日本固有の領土」と説明するのは、ここに根拠があります。 樺太の南半分が日本の領土になった その日本とロシアの間には、残念な歴史もありました。まずは、日露戦争です。日本はこの戦争に勝ち、1905年、樺太の南半分までを日本の領土として獲得します。これを決めたのが、「ポーツマス条約」でした。こうして、日本の領土は、最大のときは樺太の南半分と千島列島全部ということになっていました。 しかし、やがて第二次世界大戦に。日本とソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は「日ソ中立条約」を結び、相手を攻撃しないことを約束していたのですが、この約束をソ連の独裁者スターリンが破ります。1945年8月、敗北寸前の日本に対して、ソ連が突如、日ソ中立条約の破棄を宣言し、ソ連軍の大軍が、満洲や樺太、千島列島に攻め込んだのです。 「ソ連は約束を平気で破る」という日本人の意識は、このとき形成されました。 ソ連軍の大軍が攻撃を開始したのは、8月9日。そこで、……
池上彰の 『解決!ニュースのギモン』